渋谷で引きこもってる社長です

株式会社Chotchy代表取締役 / エンジニア

安楽死は死の随意性、自己決定の自由化なのか

なんか、アメリカで末期の脳腫瘍の患者がインターネット上で自分の安楽死を告知したとか。アメリカの一部の州では安楽死が合法化されていて、その州に移住して合法的に安楽死すると。しかもその人がまだ29歳というところも注目を集めているらしい

安楽死は必ずしも悪いことではないと思う。ここで二つの僕の体験談を紹介したい。

人権弁護士が嫌い

僕が大学一年生の時、授業の一環で人権弁護士の人の講演会に行った。その人は東大法学部卒で在学中に司法試験に合格。その後人権弁護士として独立した南スーダンの法整備に携わったらしい。最初っからその人はかなり上から目線でいけ好かなかったので最後の質疑応答の時僕はこういう質問をしました。「もしも、スーダンの子供たちになぜ人を殺してはいけないか、と尋ねられたらどう答えますか」と。そしたら、その返答は驚くものでした。「そんなこと自明すぎて答える気にもなりません」

いったいどこが自明なのか?そのことが自明なら世界から戦争も死刑も殺人もなくなっている。そもそも私たちは子供たちに決して人を殺してはいけません、なんて言える立場じゃないことに気づいてほしい。日本には「合法的な殺人」としての死刑もある。危険思想者を殲滅するために国際的に合法化された戦争もある。こんな世の中で子供たちに胸を張って人を殺してはいけないなんて言えるだろうか?

そのあとに、ピースボートの人の話を聞く機会があった。今回は質疑応答でかみつくことはしなかったが、その人は「みんなが理性の光の下で行動すれば世界は平和になる」と言っていた。こんなのおかしいことだ。理性ってなに?もしかしたら、憎むべき相手を殺すことがその人にとっての理性かもしれない。実際、戦時中の日本において英米を倒すことが理性だった。そんな乱暴な「理性」があるだろうか。

アウシュビッツの生存者は随意的な死を選んだ


Amazon.co.jp: “境界”の今を生きる―身体から世界空間へ・若手一五人の視点 (人文・社会科学振興プロジェクト): 荒川 歩, 谷川 竜一, 内藤 順子, 川喜田 敦子, 柴田 晃芳: 本

この本はぜひともみなさんに読んでもらいたいが(アフィリエイトじゃないよ)、ここの本にアウシュビッツ生存者の人生を追ったルポタージュがあった。その中に二人の人が出てくる。かなり対照的なその後の人生を送る二人として。二人ともアウシュビッツでは毎日いつ自分が殺されるのかわからない死の恐怖におびえながら生きており、その傷と向き合う毎日を過ごしていた。ふたりとも平和な毎日の中で徐々に人間的な生活を取り戻していく。そして、終戦からだいぶ時間が経った後、一人は自殺してしまう。それは、アウシュビッツの傷によるネガティブな行動ではなかった。遺書によるとその人は自分の生の終わりつまり死を自分で選ぶことができたのだと。死を自分で選べる。自由な選択肢の中の一つとして位置付けた。いつ他人に奪われるかわからない権利を自分で獲得した。僕はこれを読みその人たちの苦しみの深さ、残酷さを知った。

「人を殺してはいけない」「自殺してはいけない」この命題が真であると証明できない

私の知る限りこれをちゃんと証明できる説明できる人はいない。ただ、僕は人を殺さないし自殺もいまんところしない。なぜなら、人を殺したら気分が悪いし、自分が殺される側だったら相当むかつくから。そして、自殺しない理由はまだまだ自分は成長するしもっとこの世の中に「価値」生み出していきたいと思ってる、やり残したことがたくさんあるからだ。それ以上でも以下でもない。