渋谷で引きこもってる社長です

株式会社Chotchy代表取締役 / エンジニア

イスラム国参戦の意味について考えてみた

北海道大学の学生がイスラム国への参加を企てたとして警察公安部から事情聴取を受けている。イスラム国:「非日常」への逃避か 北大生、疎外感募らせ [毎日新聞]

その動機に関して就職活動の失敗などを挙げている。

これを多くの人は「そんなことで」や「何を考えてるんだ」というかもしれない。そこでは現代社会の中での「生」と「死」への意味が現れていると思う。

個性なんてない。

これは僕が高校生の時からかわらず持っている意見である。その文字通り「個性なんかない」。例えば、雑誌などで「個性あふれるコーデ」とうたわれることが多々あるが結局みんながそのコーデをまねしてしまうため「個性あふれるコーデ」ではなくなってしまう。現代での「個性」 とは、一般的と考えられている基準とどこか違うという意味で使われているかもしれない。つまりは、一般的な基準とされているものから各要素を少しかえることが個性と言われている。しかし、大人たちが「個性的に生きろ」という時の個性はこれとは意味が違う。その人だけが持っている能力や考え方、いわゆる「独創性」といわれるものだと思う。前述の通り個性というのは「要素の組み合わせ」でしかない。それゆえ「独創性」ではない。そこにジレンマがある。

そもそも独創性は模倣の連続の中からしか生まれない。なのに、独創的に生きることを強要してくる社会的な風潮が蔓延してる。

自分の存在と価値

「個性がない人は代替可能な存在である」そういうふうに考えられているかもしれない。仕事と言う面で考えたとき、自分にしかできない仕事ができる、というのはすごく価値のあることであるのは自明だ。だが、そんなことできるのはかなり限られた人であるのにそれをできないと自分の存在意義がないかのように感じてしまう。「明日自分がいなくなったとしてもこの仕事は他の人がやってくれるに違いない」そう考え始めたら生きている意味を感じられなくなってしまうに違いない。「個性」がその人の存在意義であるとするなら、多くの人は存在しなくていいのかもしれない。どんどん効率化が進むにつれ、人の力というのがいらなくなってくる分野も増えてくる。ますます、私たちの存在意義というのは情報社会の中に溶解していく。一人一人の違い、価値は定量的な評価、基準の中に溶解していく。そこでは、要素の組み合わせでしかない私たちの存在自体も要素へと解体されていく。これがいわゆる「個の解体」である。

存在価値は関係性の中にある

私たちの「個性」はこのようにして否定され、ひいては存在意義までをも否定されていく。なんども言うが私たちという存在自体までも「要素」として認識されてしまうからだ。だから、いい会社に入れないことが「存在の否定」に結びついてしまうのだ。しかし、その人の存在というのは独立した個人だけではなく、これまでに構築された関係性のなかにあるはずだ。親戚、友達、地域共同体…。自分の存在というのはそういった関係性の中で定義されるものであるはずで、人間というのは独立した個人である前に社会的な存在であるはずだ。関係性の連続の中で生きているはずなのに断片的な「要素」を否定されたことで存在の危機に陥ってしまうのは個というシステムののしなやかさ、レジリエンスの欠如でしかない。

死の中で見える生

こうして私たちの個は脅かされている。自分の存在意義を見いだすために「死」を利用しないといけない、という若者が増えている。これを現実逃避と思う人は多いだろう。確かに現実逃避かもしれないが、逆にいうと自分の生を回復しようとする究極的に積極的な活動なのかもしれない。私たちは死を目の前にしたとき関係性を志向する。絶対的に個人的な営みである死。死というのは関係性の終わりを意味する。それを目の前にしたとき私たちは関係性の中で生きていることを実感し、生を回復する。

このように見てくると、イスラム国へ参加しようとする学生のうらにある社会のジレンマを伺える。イスラム国の戦士として死ぬことはイスラム国という関係性をもった共同体の中での意味のある死をえることができるという思いがある。きっと、戦場の中では失われた自分の存在意義を回復できるかもしれない。

自由を得たこの社会では自由を満喫することを強制されるというジレンマに陥っている